NHK連続ドラマ「わろてんか」大阪演芸会のトップに立つ大会社となった北村商店を率いるのは社長の藤吉。




てんは金庫番を預かる経理責任者を、風太はすべての寄席を取り仕切る総支配人となっていました。


風太( 濱田岳 )の史実上のモデルはてんのモデル吉本せいの弟、林正之助でした。


林正之助は風貌、豪快な性格からあだ名を「ライオン」と呼ばれていました。




林正之助の写真です。


確かに風貌はライオンみたいですね。


風太役の俳優、濱田岳と少し似てる感じもあります。


林正之助の名言がまたいいんです。


■  林正之助の名言


「世の中で、体の毒を消すことができるのは"薬と笑い"です。


体に効く"薬"と違って、心に効く"笑い"は副作用の危険もないから、エエこと尽くめですな。」 


人って笑っただけで元気になるんです。


毎日の生活で笑いがあるから生きていけるんです。


チャーリー・チャップリンも次のように言っています。


無駄な一日。


それは笑いのない日である


A day without laughter is a day wasted.


実際の林正之助はとても魅力的な人物だったようです。


林正之助はどんな人だったのか?


吉本の芸人、間寛平は林正之助に関して次のように述べています。


間寛平は24歳で就任した吉本新喜劇の座長時代にも林によく叱られた。


間寛平は70年代後半、なんば花月、京都花月劇場、うめだ花月(いずれも閉館)を回り回って約7年間休みなし。


とにかく忙しかった。


「休ましてほしい」と頼むと林正之助氏からは「一生休んでくれ」。


ギャラを上げてほしい」と訴えると、「芸人にギャラをやるぐらいなら、ドブに捨てるわ」と逆ギレされたこともあった。


「ホンマにドブに捨ててほしかったですわ。拾いにいくから


ただ、「アホ」「ボケ」「カス」という罵詈雑言を受けても、その裏側は芸人たちへの愛情に満ちあふれていた。


林は新喜劇の初回公演には必ず視察に訪れて、アドバイスをくれたことも1度や2度ではなかったと言います。


あの時代はタレントや漫才師も少なく、エエとこを見てきたと思います。


かつて、なんば花月の正月公演に1日約7000人の客を入れたこともある。


劇場内は超満員に膨れ上がり、揚げ句、舞台裏から客を出した。


それでも、劇場前では「(満杯で舞台は見えないかもしれないけど)はいれるよ~!」と呼び込みをやめることはない。


ハチャメチャがまかり通る時代であった。


林正之助の生きた時代ハチャメチャだったが楽しい時代だったんでしょうね。


そんな吉本も、「お笑いの総合商社」と呼ばれるまでに大きくなった。


寛平自身、もうすぐ芸歴45周年。先輩芸人は50周年を迎える西川きよし(66)や六代目桂文枝(69)ら数えるほどしかいなくなった。


お笑いも平成から次の時代へと変わっていくのでしょうか。


なんだか楽しみですね。


正之助の略歴


正之助(はやし しょうのすけ)


( 1899 123 - 19914 24


吉本興業元会長・社長。


興行師、芸能プロモーター。


風貌、豪快な性格からあだ名を「ライオン」と呼ばれていた。


経歴・人物 興行師として 兵庫県明石市生まれで大阪府大阪市北区出身。


米穀商を営んでいた林豊次郎の長男として出生。


姉は吉本興業創業者の吉本吉兵衛(後に泰三と改名)の妻の吉本せい。


弟は旧吉本興業株式会社(初代東京吉本)の社長を務めた林弘高。


実子は林マサで、その夫(娘婿)は林裕章。


1917年、18歳の時に吉本興業の前身、吉本興行部に入社し、 19歳で総監督となった。


1948年に吉本興業合名会社が株式会社に改編されたのを機に、初代の社長に就任。


1950年に初代会長に就任していた姉吉本せいの死に伴い、会長も兼務した。


1963年に体調を崩し、大阪大学医学部附属病院に入院、持病の糖尿病と膀胱の疾患と診断され、やむを得ず社長から一旦退き、弟の弘高に譲る。


19944 24日死去。


享年93歳。