ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

 NHK連続ドラマ『エール』主人公、古山裕一と村野鉄男と佐藤久志、福島三羽烏と呼ばれ、戦後も次々とヒット曲を世に出していきます。

 あのドラマで歌った久志(山崎郁三郎)「栄冠は君に輝く」は良かったですね。とか、鉄男の境遇は悲しかったとか、ドラマを観ていて、いろいろと感じてしまいました。

 ドラマを観ていてふと、ちょっとしたことが気になりました。古山裕一は大作曲家になり、佐藤久志もスター歌手に、村野鉄男も有名作詞家になりましたが、みんな本名のままなのでしょうか。

 えっ、だって音楽家や芸能人はペンネームや芸名を使うのが普通じゃないですか。

歌手、作詞家、作曲家はペンネームでは

 実はドラマの主人公、古山裕一のモデルになった作曲家、古関裕而さんも本名でなくペンネームです。

 本名は勇治。昭和天皇の裕仁の裕を取って裕而としたそうです。

 村野鉄男のモデルになったのは村野俊夫。本名は鈴木喜八です。

 歌手の佐藤久志のモデル伊藤久男も本名は伊藤四三男(しさお)。四男でした。

 そうです、やはりモデルだった音楽家たちはみんなペンネームだったんです。

 NHK連続ドラマ『エール』では古山裕一、村野鉄男、佐藤久志はペンネームなんでしょうか。

 もちろん、彼らの名前はドラマの中の名前です。

 ちなみに、志村けんさんが演じられた小山田耕三のモデルは作曲家の山田耕筰。本名は山田耕作です。

 山田耕筰のペンネームは「やまだ こうさく」読み方は同じなのに何故、ペンネームまで同じ読みの漢字?

 これには面白い話しがあります。

1930(昭和5)12月山田耕作先生は「耕作」を「耕筰」に改名すると発表しました。なぜか「耕作」の作の上に竹かんむりをつけたのです。

 彼は山田耕作と言う名が多くてトラブルがあったので本名から変えたと言っていますが、実はこんなエピソードがあります。

 彼が指揮の途中、後頭部の髪が乱れた。そうすると周りの者が気になるからカツラをつけろと言ったのだそうです。

 怒った彼は「カツラは嫌だ!」でと丸坊主にしました。それで坊主頭の「ハゲピカ」になってしまいました。

 しかし名前の上にだけは素直にカツラをかぶせたそうです。それが作の上につけた竹かんむりでした。そこまでしなくてもと思ってしまいます。

 本人は名前だけは竹かんむりでケケ(毛毛)を生やしたつもりなんでしょう。なんだか山田耕筰先生が志村けんさんみたいに思ってしまいました。

 音楽家の先生たちは本名ではなくペンネームを使っています。ペンネームにも彼らのそれぞれこだわりがあるようです。

 NHK連続ドラマ『エール』のドラマの中でも主人公、古山裕一、鉄男、久志の本名だとかペンネームも考えてみるのも楽しいかも知れませんね。

 NHK連続ドラマ『エール』主人公古山裕一と音のドラマなんですが、モデルになってるのは作曲家の古関裕而さん、この方の作曲した歌は知らないまに古関さんの曲を口ずさんでいることがあります。みなさんもそんな経験はありませんか。


 小さい頃、集団登校で学校に向かう途中、みんなでよく、歌ったことがありました。


渡ろ渡ろ 何見て渡ろ 

信号見て渡ろう

これって古関裕而さん作曲の「あかあおきいろ」って歌なんです。


「あかあおきいろ」


 関根新太郎氏作詞

古関裕而氏作曲


渡ろ渡ろ 何見て渡ろ 信号見て渡ろう

赤青黄色 青になったら渡ろう

赤ではいけない 黄色はまだだよ


 大人になっても信号を見ていたら自然とこの歌を口ずさんでいたりします。古関メロディって凄いですね。

 NHK連続ドラマ『エール』では主人公、古山裕一(窪田正孝)と村野鉄男(中村蒼)と一緒に小学校の恩師、藤堂先生のお墓に母校の校歌を作った報告をしに行きます。

 『エール』は古関裕而夫妻の物語をモデルとしてますが、史実とは全く違っています。

ちょっとドラマと史実の対比をしてみます。

 古山裕一のモデルは古関裕而、村野鉄男のモデルは野村俊夫、藤堂先生のモデルは遠藤喜美治、二人の母校の小学校は福島師範附属小学校です。

 まず、母校の小学校の校歌ですが、作詞家は古関吉雄、作曲家は岡本敏明となっています。

 ドラマでは母校の小学校校歌を作ったとなってますが、史実では全く違う人が作っています。

 また、藤堂先生ですが戦争中、ビルマにて戦死したことになってますが、遠藤喜美治先生は死んでいません。

 なんで、こうも史実と違っているのでしょうか。

 恩師の遠藤先生と古関裕而の心温まるエピソードがあります。

恩師、遠藤先生と古関裕而

 遠藤喜美治は福島師範附属小学校に教師として採用され、古関裕而の担任を小学校3年から6年生まで務めた。

 古関裕而「卒業までの四年間、私のクラスは四十七名だったので、担任の遠藤喜美治先生は、よく忠臣蔵だと言って皆を笑わせていた。」

古関裕而自伝「鐘よ 鳴り響け」より

『唱歌とつづり方を指で導してくださる遠藤先生は、大変な音楽好きであった。自ら作曲をなさるばかりか、私たちにも童謡を作らせるほどに、音楽教育に熱心な方であった。

先生の作られる曲は大変美しく、童謡の作曲も楽しかった。

私にとって唱歌は最も楽しみな授業になった。』

 古関裕而自伝「鐘よ 鳴り響け」より

 遠藤喜美治は北海道の小学校に赴任し、教師をしながら勉強に励み、国語の教員免許を取得しました。

 その後も、遠藤喜美治は学問を志して上京し、忍岡高等女学校で教鞭をとりながら、夜学に通って学問に励み、私塾を開きました。

 その一方で、東京で作詞家となった古関裕而と交流を持ち、遠藤先生の卒業した福島の要田小学校から校歌の制作を頼まれたとき、古関裕而に作曲を頼んでいました。

 その時、古関は多くの作曲を依頼されて多忙を極めていましたが、遠藤先生のためならと喜んで作曲をしています。

 ここに恩師、遠藤喜美治先生と古関裕而の校歌が出来たのでした。

要田小学校の校歌

遠藤喜美治:作詞、古関裕而:作曲


五(いつ)つの大字(あざ)の  むつまじく

 力(ちから)を協(あわ)せ  展(の)びて行(い)く

 郷(さと)に萌(も)えたる  若草(わかくさ)よ

 抱(いだ)く望(のぞみ)の  大(おお)いなれ 


 それにしても遠藤先生も、生徒の古関裕而が大作曲家になって嬉しかったでしょうね。しかも、作曲を依頼しても、先生のためならと直ぐ曲を作ってくれる。

 いつまでも昔と変わらない古関裕而。遠藤先生と古関裕而の付き合いは先生が亡くなる昭和46年(1971年)3月まで続いたそうです。

 NHK連続ドラマ『エール』では音(二階堂ふみ)は オペラ「ラ・ボエーム」の稽古で、皆と明らかな実力の差を感じた音は、追いつこうと努力するが、どうしてもうまくいかない。ついに舞台を断念します。

 音のモデル古関金子も理由は違いますが、声楽を断念しています。

 古関裕而の妻、金子は、1946(昭和21)7月に長男・古関正裕(まさひろ)が生まれてから、歌手活動を続けるのは不可能だと悟り、1949(昭和24)より放送された古関作曲の3篇の放送オペラ『朱金昭』(チュウ・チン・チョウ)、『トウランドット』『チガニの星』は古関金子・藤山一郎・山口淑子・栗本正・小夜福子の出演でNHKで放送を最期に声楽から引退しました。

 ドラマと違って声楽の才能は認められていたのですが子育てにて、あきらめざるを得なかったようです。

 古関裕而は「妻は次第に家庭的に忙しくなり、残念ながら歌を歌う機会を逸してしまうが、家庭を守りながらも、私の仕事のよき理解者であり、よきアドバイザーであった」

と言っていました。

 しかし、家に閉じこもっていないのが古関金子さんです。

 昭和26年に投資信託が始まり、投資信託が大きな注目を浴びていた頃。

 古関金子は1952(昭和27)、山一證券の渋谷支店で投資信託をはじめて購入しました。

 それが、おりからの朝鮮戦争の特需もあって、大当たりしました。

金子さん音楽以外の別の楽しみを見つけたのです。

 それをきっかけに、金子は自分でも直接株を買うようになり、なんと半年で100万円ほどの利益をあげてしまいました。

 小学校教員の初任給が、6000円弱だった時代の話です。

 これで金子は、すっかり株取引の虜になってしまいました。

試行錯誤を重ねながら、やがて婦人   投資家として成功。金融メディアにも盛んに登場して、「百戦錬磨の利殖マダム」などともてはやされるようになりました。

 しかし、1953(昭和28)3月のスターリン・ショックによる暴落で、儲けを全て吐き出し、さらに10万円も損をしてしてしまった。

 普通の人は、ここで止めてしまうのだが、古関金子は人任せにしたのが間違いだったと思い、本気で株式投資の勉強を開始した。

 実際の成績は不明だが、長期的には株価は右肩上がりの時代に、古関金子は信用取引も行っていたようなので、相当な利益を出していたとも言われる。

 古関金子「確実なものとしては東芝、三菱造船、それから割合資本金の少いものとして、新春から妙味のあるものは、これは沢山あって選ぶのも大変ですが、まあヂーゼル機器、関西ペイント。資本金の少い方ではありませんが、三菱電機、松下電産などのトランジスター関係、それからソニー、特にビデオテープ、あれには大変興味を持っております。第一ホテルやコロムビアも安値で拾って間違いないんじゃないでしょうか。」と述べています。

「婦人投資家新春放談」『日本証券新聞』195911日付より

 さすが古関裕而の奥様、金子さんはパワフルレディでした。

 本人の語るところによれば、1960年代初頭には、「株式新聞」「日本経済新聞」「株式市場新聞」「暮らしと利殖」、山一の「週報」「特別ニュース報」、野村の「速達ニュース」、日興の「マネービル新聞」、大商の「投資ウィークリイ」などに目を通し、週に4回のペースで、証券会社に通っていたそうです。

 ご存知のとおり、その後の高度経済成長により、日本の株価はぐいぐい伸びていきます。さきほど上げられている株も優良なものが多いですから、金子はある程度、投資で成功していたのでしょう。

 もっとも、金子も最初は株取引に抵抗感があったようです。芸術家の自負もあり、「なんとなく下俗」に感じていたのだとか。ところが、そんな気持ちは、巨額の利益の前に吹き込んでしまいました。そしてついに「株は芸術なり」と宣言するにいたるのです。

 自分が楽しんでいますこの頃では、「株は芸術なり」と云って憚りません。

出典:古関金子「株は芸術」『週刊株式』創刊号より

 古関裕而の奥様は音楽から、いつのまにか金融の世界に入っていたようです。

 NHK連続ドラマ『エール』では音が株をやっていたなんてドラマになることはないとは思いますが、なんでもとことんやらなければ気のすまないのが音さん古関金子の性格だったようです。

 NHK連続ドラマ『エール』では鉄男(中村蒼さん)は木枯(野田洋次郎さん)と作った「湯の町エレジー」のヒット後、少し行き詰まっていた。そんな鉄男の様子を察した裕一(窪田さん)は、鉄男に母校の小学校の校歌の作詞をしてほしいと依頼する。

 主人公、古山裕一は鉄男に優しいですね。小学校時代に鉄男に助けてもらった記憶が忘れられないからでしょうか。

 古山裕一と鉄男の通っていた小学校は福島師範学校付属信夫小学校でしたね。

 随分前のことなので忘れていました。

 第一話では小学校の校舎の額縁に校歌が掲げてありました

福島信夫小学校校歌

作詞 村野鉄男

作曲 古山裕一

吾妻の嶺を仰ぎ見し

我等の郷に栄えあれ

修身専念 先人の

尊き教え敬いて

強度の礎ならんとす

阿武隈川に抱かれし

我等の郷に幸多かれ

献身尊崇 心寄せ

白虎の誇り 胸刻み

郷土の護りならんとす

 ドラマでは二人で母校の小学校の校歌を作ったことになってます。

 ドラマのモデルは古関裕而さんですが、彼の母校は福島県師範附属小学校、現在の福島大学附属小学校です。

 ここの校歌は確かに作曲は古関裕而になっていますが、作詞は岡本敏明となっていて二人が作ってはいません。

 二人が作詞、作曲している母校と言えば福島商業学校です。 

福島商業高校は創立60周年を迎えたことを記念して、新しい校歌「若きこころ」を披露しています。「若きこころ」こそが、作曲・古関裕而、作詞・野村俊夫の名コンビによるものでした。

 どうもドラマと違って実際は小学校ではなく高校の校歌を作っていたようです。     

古関裕而の福島商業学校校歌「若きこころ」

 1948(昭和23)福島商業高校は校舎のほとんどを焼失する火災が発生しました。新学期が始まる直前の出来事で、5月に予定されていた創立50周年記念行事が取りやめになるなどほど影響が大きかったものです。

 母校の危機に古関裕而、野村俊夫は立ち上がり、資金集めのため、当時の人気ラジオ番組「二十の扉」の福島公演と「コロムビア音楽会」を企画。出演者の手配など、母校の復興に奔走したそうです。

 1957(昭和32)10月福島商業高校は創立60周年を迎え、新校歌「若きこころ」の発表会が行われました。作詞は福島市出身の野村俊夫、作曲は古関で、悠然とした歌い出しと格調の高さは、福島を熟知した2人の傑作でした。

 「雲白き吾妻の嶺よりなお高く/理想に燃ゆる若きこころ」と、まず吾妻山の威容と志の高さを訴え掛けます。続いて「師の教え守りて/いざ励まむたゆみなく」と刻苦勉励を説き、そして「ああ!光りあり/福島商業高校!」と結び、母校の繁栄を祈る言葉が続きます。

 それまで歌われていた旧校歌にある「集える数百の健男児」は、男女共学校には不似合いであり、戦後復興を成し遂げつつあった当時は、新時代に合った校歌を作る動きが起こり、戦前の校歌は次々と新校歌に変わっていった時期でもありました。

 創立60周年の記念式典でその校歌を披露する予定だったが、古関は用意した来賓席に時間になっても現れなかった。ところが「同窓生、起立」の号令で同窓生が立ち上がると、その中に古関もいたのです。

 「私は来賓でもなんでもない。同窓生なんだ」と言って、同窓生の席に座っていたそうです。

 古関裕而は紹介され、壇上に上ると全校生に気軽に語り掛ける感じで、終始にこやかに、楽しそうに福商時代を回顧しました。

 「皆さんは若くて希望がいっぱいある。私は福商時代、音楽で身を立てたいと願っていた。そして今、希望通り音楽に生きています。君達も何かをやり遂げたいと思ったら、どうすればなれるか、今何をやれば良いかを本気になって考えて、なりたい、なりたいと希望し続けることが大切です」

 古関裕而と野村俊夫の2人の交流は、故郷福島とともに続きました。

  古関の妻「金子」は、「何でも福島なのね」とやきもちを焼いていたとか。

 古関裕而は福島の人も故郷も大切にしていました。

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