ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

 NHK連続ドラマ『エール』では主人公古山裕一と池田二郎がNHK連続ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』をコンビで作り、次には『君の名は』を作ることになり、二人の仕事はどんどん忙しくなりました。

 ラジオドラマでのメイコンビのモデルは古関裕而と菊田一夫。二人は、年齢も菊田が1才上とほとんど変わらず。相性も良かった。

 出会いは1937(昭和12)の戦前のNHKラジオドラマ『当世五人男子』で一緒に仕事。評判が良く『思い出の記』『八軒長屋』と二人コンビでラジオ放送を作っていました。

戦後のラジオドラマ

 1945(昭和20)10月日本放送協会の独活山万司(うどやままんじ)から「古関裕而と菊田一夫で戦後初のラジオ・ドラマ『山から来た男』を担当してもらいたい」との連絡を受け、戦争で途絶えていたコンビが復活しました。

 そしてCIEより菊田一夫にラジオドラマの依頼があったのが昭和22年7月から開始された「鐘の鳴る丘」でした。

 菊田一夫脚本、古関裕而音楽のラジオドラマ番組。人気が人気を呼び何と3年6ヶ月も続きました。

 娯楽の少ない敗戦直後の国民は、そのストーリーと音楽につかの間の心の安らぎを求めていた人々に未来の希望を与えたのでした。

 当時売れっ子の菊田は、実はその脚本執筆で苦悩していた。国民に受けるストーリーは、そう安易にはかけるはずがなかった。

 番組に穴をあけるわけにはいかないので、スタジオに入っての脚本執筆となる。放送時間が押し迫っても、完成しない脚本。そこに古関の出番がやってくる。

 菊田の台本の出来るまでが古関の勝負である。そのとき大活躍したのが、ハモンド・オルガンであった。この楽器はピアノと違い、音に連続性がある。つまり音を長くのばすことができるわけで、その間に次の曲想が生まれる。その繰り返しの中で古関は音楽を創りました。

 古関は今まで学んだ多くのメロディーを想起しつつも、即興曲を演奏し続けた。菊田の台本がやっと完成すると、ハモンド・オルガンの役目が終わるわけではなかった。いよいよ本番である。古関はその後も続いた「君の名は」でも見事な演奏を披露し続けた。けだしハモンド・オルガンと古関は、戦後のNHKラジオ・ドラマを支えたのでした。

古関裕而は舞台音楽へ

 昭和30年(1955年)、菊田一夫が東宝の演劇部門の重役として東宝に移籍すると、古関裕而も約10年間続けたラジオドラマを後にし、菊田一夫とともに、東宝劇場や芸術座を中心に舞台音楽を手がけるようになります。

 1956(昭和31)2月、第一回東宝ミュージカルは菊田一夫脚本・演出、音楽・古関裕而「恋すれど恋すれど物語」で上演。エノケン、ロッパ、越路吹雪、宮城まり子など豪華配役陣で大盛況でした。

同年8月映画となり上映される。

 1957(昭和32)小林一三は「現代劇」を熱望する菊田一夫の為に、ヒビヤ芸術座を創設。

 杮落しは425日、山崎豊子原作・菊田一夫脚本・演出、東宝現代劇「暖簾(のれん)」。主演は森繁久彌で大好評。

 菊田一夫は「お客様の心の躍るような最高のエンターテイメンを・・・それには第一に脚本、第二に脚本、第三に脚本だよ」と「がめつい奴」「放浪記」「悲しき玩具」「夜汽車の人」など数々の名作を生み出し、また宝塚の生徒さんを芸術座に出演させて多くの女優を育てたました。               

 1961(昭和36)丸の内ピカデリーで映画「ウェスト・サイド物語」が公開。東宝のミュージカルは、本場のミュージカルとは、ほど遠いなどと言われた。菊田一夫と古関裕而は日本のミュージカルの為に真剣に立ち向った。超多忙な一年の間に四回も渡米。ブロードウェイ・ミュージカルの数々を観劇した中で、ある作品に感激。このミュージカルなら日本人に肌合いがあう。このミュージカルをすべて日本人の手で上演する価値があると決断。

 1963(昭和38)9月、東京宝塚劇場にて日本初のブロードウェイ・ミュージカル「マイ・フェア・レディ」を上演。

 もちろんオープンの指揮者は古関裕而でした。

江利チエミ(イライザ)、高島忠夫(ヒギンズ教授)ら出演者総勢百一名がそれぞれ好演。

「日本のミュージカルの夜明けとなる公演だ」など劇評は各紙、絶賛。

同年10月、日生劇場が完成。ドイツオペラで杮落し、一年後の昭和3911月、アメリカ人によるブロードウェイ版の「ウェスト・サイド物語」が来日公演。

 1965(昭和40)5月、東京宝塚劇場にて、東宝ミュージカル国際公演「ハロー・ドリー」を上演。アメリカ国務省派遣文化使節団一行が来日。主演のメリー・マーチンが宝塚劇場の舞台に立った。「日比谷にブロードウェイがやって来た。」ミュージカルファンには、たまらない喜びだった。だがまだ、ごく限られた人だけのものだった。

 古関裕而と菊田一夫のコンビは菊田が死去する1973(昭和48年)まで、約18年間続きました。

 18年間の間には、演奏中に劇場の火災に巻き込まれるような惨事や、古関裕而自身が胃潰瘍で倒れるハプニングもありましたが、もともと舞踊組曲やオペラに関心があった古関裕而は、この舞台音楽を手がけた日々と菊田一夫の逝去を、自伝「鐘よ鳴り響け」の中で次のように語っています。『全く忙しい毎日ではあったが、実に楽しく愉快な日々の連続であった。ただ夢中で過ぎていったこれらの日々に終止符が打たれようとは、想像だにしなかった。』

 NHK連続ドラマ『エール』にミュージカルのスターたちが多く出演しているのも二人が日本のミュージカルを生み出した古関裕而と菊田一夫だからなのかも知れません。

 最近、受験日が間近になり、毎日のように過去問題集を解いていました。

 試験問題を解いていたらこんな出題形式が出ていました。

『誤りははいくらあるか答えなさい。』

 なるほどこんな形式で出題すれば良いのかと思い、NHK連続ドラマ『エール』をクイズにしてみました。

『エール』史実との誤りはいくらあるのか?クイズ

『エール』に於いて史実と誤っているのはいくつあるでしょうか?

答えて下さい。

①古山音(古関金子)の声楽指導をしたのは双浦環(三浦環)である。

②藤丸(音丸)の歌った「船頭可愛いや」はヒットしなかった。

③藤堂(遠藤)先生は実は戦死していなかった。

④佐藤久志(伊藤久男)と藤丸(音丸)が婚約した。

⑤古山裕一(古関裕而)は「船頭可愛いや」「紺碧の空」「露営の歌」「長崎の鐘」「栄冠は君に輝く」等を作曲した。



答え


誤りは①②③④の4つです。

①三浦環は古関金子の音楽指導をしたことはありません。音のモデル古関金子は三浦環のファンでしたが、ほとんど面識もありませんでした。

②「船頭可愛いや」古関裕而の最初のヒット曲です。藤丸のモデルは音丸です。音丸が歌った古関裕而作曲の「船頭可愛いや」が大ヒットしたのです。三浦環はヒット後にレコーディングしてます。

③藤堂先生は戦争中、戦死したことになってます。藤堂先生のモデル遠藤喜美治先生は戦争には行ってません。戦後、元生徒の古関に母校の小学校校歌を依頼しています。

④佐藤久志のモデルは伊藤久男、藤丸のモデルは音丸です。二人が婚約した話しは全くありません。伊藤久男は3度結婚し、音丸も2度結婚しています。


 NHK放送『エール』のドラマと史実とは全く違っています。史実と同じだったのは⑤だけでした。

 古山裕一の作曲した曲は全て古関裕而が作曲した曲。それも実名で全く史実と一緒です。

 これでは、ドラマと史実がごちゃ混ぜで、どれが真実かわからなくなってしまいます。

 しかも、主人公、古山裕一のモデル古関裕而先生の代表曲が実名で出てくるのでしまつが悪い。

 とくに史実と全く違うのが、戦後の昭和を代表するオペラ歌手三浦環だったり、大スターの伊藤久男や音丸だったりするのです。

今現在も彼らの大勢のファンも健在ですし、お子さんやお孫さんもいます。こんなに史実を曲げてしまえば名誉毀損ともなるのではないかと思います。

 ドラマに出てくる史実モデルは

こんなに違っていればテロップで

『このドラマはフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。』としてもらいたいと思います。

 NHKは連続ドラマ『エール』は古関裕而と妻音の物語をモデルにしたと公言しているのですから、それも出来ないのかも知れません。

 NHK連続ドラマ『エール』は娯楽番組として楽しく観させてはいただいてますが、この点を考えると少し複雑な思いがします。

NHK連続ドラマ『エール』では主人公古山裕一と池田二郎がNHK連続ドラマ『君の名は』をコンビで作ることになります。

 古関裕而と菊田一夫がコンビで作ったNHK連続ドラマ『君の名は』は敵わない恋、禁じられた恋をドラマとして大ヒットしますが、最初はドラマは社会派ドラマとしてスタートし、登場人物は、戦争未亡人や戦災孤児、元軍人、娼婦ら当時の社会を反映したものでした。

 当初、あまり人気の出なかったこのドラマは、「半年も過ぎた頃(ころ)から大変な人気となり、2人のすれ違いに聴取者の同情が集まり」(自伝『鐘よ 鳴り響け』)、菊田一夫の筆は2人の純愛物語へと軸足を移していったのです。

 こうした路線変更について菊田は、「戦後5年も経(た)てば国民の戦争に対する気持ちも次第に変化してきている。社会性を持たないものの方がかえって大衆受けをする」(小幡欣治著『評伝菊田一夫』)と確信、以後の作品づくりの基本となりました。

 「君の名はと尋ねし人あり/その人の名も知らず/今日砂山にただひとり来て/浜昼顔に聞いてみる」との切ない哀愁漂うメロディです。

 第一部めぐり逢いの東京、情熱の鳥羽、そして別離の佐渡へとさまよったふたりの純愛。

 第ニ部では雄大な北海道へと舞台は移り、眞知子と春樹の波乱のドラマはなおも続いていく。心ならずも他の男と結婚してしまい、子を宿してしまった眞知子。それを知った春樹は、傷心を抱いて北海道へ。

 第三部では東京へ帰った真知子は、離婚調停。九州雲仙とヨーロッパに別れ、最後は東京の病院で会う二人。

 『君の名は』 作詞:菊田一夫

       作曲:古関裕而

1番目は佐渡

君の名はと たずねし人あり

その人の 名も知らず

今日砂山に ただひとりきて

浜昼顔に きいてみる

2番目は東京

夜霧の街 思い出の橋よ

過ぎた日の あの夜が

ただ何となく 胸にしみじみ

東京恋しや 忘られぬ

3番目は志摩

海の涯に 満月が出たよ

浜木綿の 花の香に

海女は真珠の 涙ほろほろ

夜の汽笛が かなしいか

 『君の名は』の歌の通り、戦後の日本の各地を転々とし、すれ違いを繰り返す2人のドラマは終戦後の焼け果てた日本の復興と戦争で叶わなかった女性たちの恋愛をなんとかドラマの主人公春樹と真知子に結ばれて欲しいとの思いが1954(昭和29)の『君の名は』の大ブームとなったのでした。

 ラジオドラマは舞台を変え、ご当地ソングのはしりとなりました。

 この放送を聞くために「毎週木曜日の夜8時になると、銭湯の女湯が空になる」とのまことしやかなキャッチコピーが生まれたのは、菊田の傑出した作品展開と叙情あふれる古関メロディーによるものでした。

 春樹と真知子、数寄屋橋と『君の名は』は昭和の名ドラマとしていつまでも語り継がれ、主題歌は歌われ続けましたが、65年経った今では数寄屋橋の菊田一夫筆『数寄屋橋此処にあり』の碑も誰も振り返る人もいなくなってしまいました。

 50年の時の経過は、ほとんどの記憶も、形跡も無くなってしまうものなのです。

『多くの忘却なくしては人生は暮らしていけない。』

byバルザック

 NHK連続ドラマ『エール』では主人公古山裕一と池田二郎がNHK連続ドラマ『君の名は』をコンビで作ることになります。

 古関裕而と菊田一夫がコンビで作ったNHK連続ドラマ『君の名は』は敵わない恋、禁じられた恋をドラマにした物語です。しかし、昭和のすれ違いメロドラマとして女性に受け入れられ大ヒットとなります。

■NHKラジオドラマ『君の名は』

 古関裕而と菊田一夫のNHKラジオドラマ『君の名は』1952年(昭和27年)410日から1954年(昭和29年)48日。毎週木曜8時半から9時までの30分放送されました。

 番組の冒頭で「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」という加藤幸子の1953年(昭和28年)1月からは鎌田彌恵 のナレーションが流れた。

 ラジオドラマは大人気となりラジオ放送がながされた時間に銭湯の女風呂は空になったと言われている。

 当時のラジオドラマは生放送だったため、劇中のBGMは音楽担当の古関裕而がハモンドオルガンで毎回即興で演奏していた。

映画『ひめゆりの塔』

 1953(昭和28)19日映画『ひめゆりの塔』が上映される。

沖縄戦で看護婦として前線に立ったひめゆり学徒隊の悲劇を描いた戦争映画。作品は大ヒットを記録し、倒産の危機にあった東映を救った。

 1982(昭和57年)に同脚本・同監督によりリメイク版が公開された。

 この映画の音楽制作も古関裕而だった。

映画『君の名は』

 NHKラジオ放送『君の名は』の大ヒットを受け映画が制作されます。

 1953(昭和28)9月に松竹より『君の名は』第一部が上映され12月に第二部が公開された。

 1954(昭和29)427日のゴールデンウィークに第三部が公開された。

 映画館は『君の名は』ブームに湧きかえり、入場客が次々と押しかけたのでした。

■1654年邦画興行収入

 興行収入を見てみます。

 邦画配給収入トップ8

 1位が松竹『君の名は/第三部』。元祖「すれ違い」ラブストーリー。もちろんタイトル、内容ともに、新海誠の同名アニメはここから。

1952年にラジオドラマから火が付いて、映画はパート3まで作った。

2位は松竹『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』。松竹オールスター版。1703年の事件発生以降、忠義という日本人像を描いたこの史話が作られなかった時代はない。

3位は東宝『七人の侍』。黒澤明監督の代表作、東宝が『君の名は』に対抗して同時封切りしましたが、残念ながら3位に終わっています。

4位は東映『新諸国物語 紅孔雀』。

NHKラジオドラマ『笛吹童子』です。当時の子ども向け時代劇で、翌年までにかけて五部作が製作されました。

5位が松竹『二十四の瞳』。壺井栄の小説『二十四の瞳』が原作。小豆島の大石先生と子供たちの物語です。

6位の大映『月よりの使者』。

主題歌は、倍賞千恵子、森昌子など歴代アイドルが歌い継いできました。実はハイロウズの代表曲『日曜日よりの使者』の元ネタ。聴き比べるとびっくりします。

7位が東宝『宮本武蔵』。監督は稲垣浩。武蔵を演じたのは三船敏郎。アメリカでも上映され、2年後にアカデミー賞名誉賞(外国語映画賞)。

8位は東宝『ゴジラ』。世界でいちばん有名な、日本発のキャラクター。キネ旬ランキングは圏外。

1954年邦画興行収入1位は『君の名は/第ニ部』2位は『君の名は』です。

 映画『君の名は』だけで興行収入88千万円です。

 当時の映画入場料は130円、現在は1800円ですから貨幣価値は13.8倍。

 現在の興行収入だと約121億円の興行収入があったことになります。

 日本の映画観客動員数は1958年の約11億人がピーク。当時の人口は約9100万人なので、1年間でひとりにつき10本映画を観ていた計算になります。なんと映画全盛期の大ヒット映画が『君の名は』だったことになります。

『七人の侍』『ゴジラ』にも勝った『君の名は』

 1954(昭和29)日本のラジオと映画を席巻したのは古関裕而と菊田一夫のコンビが作った『君の名は』でした。

 映画全盛期に黒澤明『七人の侍』、怪獣『ゴジラ』にも勝った『君の名は』ラジオからは『君の名は』の音楽が流れ、ナレーションが聞こえてきます。街頭の映画館では『君の名は』の看板がかかり、多くの観客が列をなしています。街を歩けばヒロインの真知子の頭をした(真知子巻)女性が歩いてます。日本中、二人の作った『君の名は』で溢れかえっていました。

 65年たった今では当時の『君の名は』のブームを思い知ることは全く出来ません。菊田一夫も古関裕而もラジオに映画に大活躍で忙しい毎日を過ごしていたのだと思います。

 NHK連続ドラマ『エール』主人公、古山裕一こと古関裕而さんの作品で「あなたが選んだ古関メロディーベスト30(日本コロムビア)の中で堂々の第1位に輝いたのは、昭和29年に発売された『高原列車は行く』でした。

 丘灯至夫作詞。古関裕而の曲の中でも特に有名な曲の一つです。丘灯至夫は福島県小野町出身です。

 丘灯至夫は、福島県の沼尻温泉や中ノ沢温泉の湯治客に人気のあった沼尻軽便鉄道をイメージして作詞したとのことですが、古関裕而の軽やかな曲は、むしろヨーロッパをイメージさせるような曲となりました。「古関裕而 うた物語」より

 丘灯至夫はもともと毎日新聞社の新聞記者でした。新聞記者は「押しと顔」、ということで、「おしとかお」を逆に読んでペンネームを丘灯至夫にしたということです。

丘灯至夫は子ども向け番組やアニメの主題歌も多く作詞しています。

 アニメファンの元男の子だと「ガッチャマンF

きょうも大空かけめぐる

きょうも地球をかけめぐる

オーガッチャマン

愛と正義に 燃える奴

つねにこの世を 守る奴

その名は ガッチャマン

科学忍者隊ガッチャマンファイター GO!

 元女の子だと「みつばちハッチ」

ゆけゆけハッチ 

みつばちハッチ 

とべとべハッチ 

みなしごハッチ 

 なんて、みんな良く歌ったし、口ずさみましたよね。ほんと、丘灯至夫先生は夢のある作品が多くあります。

 二人が作った「高原列車は行く」は

汽車の窓から ハンケチ振れば

牧場(まきば)の乙女が 花束なげる

明るい青空 白樺林(しらかばばやし)

山越え 谷越え はるばると

ララララ ララ ララララララ

高原列車は ラララララ 行くよ

 牧場の乙女が花束投げるなんて乙女チックじゃありませんか。なんだか素敵な世界です。

 この詩を見た古関裕而はハイジの世界を想像したようです。

 古関裕而先生も鉄道模型が大好きで、長男が子供の頃には、子供向けの32ミリゲージの汽車の模型を購入しましたが、自宅で走らせたときには、子供以上に本人が喜んで遊んだような無邪気な純真な性格です。

 みなさんがご存知のような、とても明るい楽しくてたまらないメロディをつけたのでした。

 1954(昭和29)日本の高度成長とともに日本の明るい未来を表しているようで大ヒットしました。

 そして全国どこでも歌われるようになりました。

 私の生まれた四国でも歌われていました。でも、四国には高原もなければ、列車が走るのは海と山の間です。列車の窓から見えるのは畑で草刈りしているおばちゃんばかりでした。

 こんなに歌詞が日本にそぐわない歌はありません。でも、みんな高原と乙女を夢めみながら歌っていたのでしょうか。

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