ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

 NHK連続ドラマ『エール』主人公古山裕一は娘の華とアキラの結婚を認めます。そしてビックイベント東京オリンピックマーチを作曲することになります。

 今日は古山裕一のモデル古関裕而さんの東京オリンピックマーチのお話しをしてみたいと思います。

古関裕而と映画「史上最大の作戦」             

 古関裕而にオリンピック・マーチ作曲の依頼があったのは、大会の2年前1962(昭和37)の秋頃でした。

アジア初のオリンピック競技大会におけるマーチを作ることに対して、非常に喜んでいました。

 同年1215日の洋画「史上最大の作戦」が公開されビックヒットしました。古関裕而も妻と二人で観に行っています。そのテーマソングは優れたマーチで、誰でも一度聞いたら忘れられない明るくて軽快な行進曲でした。

 映画が終わって古関裕而の妻、金子「すごく良いマーチだったわよ。あなたオリンピック・マーチ大丈夫なの?」

 古関裕而は「大丈夫だよ。」と答えたとのことです。

 オリンピックマーチの作曲者の発表があったのは翌年の春には発表されていましたが、公の演奏は1964年の開会式まで一度も行なわれることはありませんでした。

 家族でも開会式まで一度も耳にしたことがなかったそうです。

 古関裕而の息子正裕さん「父は作曲する時に楽器を使わないんです。だから、家族ですらどんな曲を作曲しているのかわかりませんでした。」と話しています。

東京オリンピック


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 1964(昭和39)はまさにオリンピックの年でした。


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 全国を聖火ランナーが駆け巡り、東京の国立競技場に聖火を運んで行きました。否が応でも、国民の期待と興奮は高まってきていました。


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 19641010日(土曜日)当日、午後2時、73,000人の大観衆を集めた国立競技場。


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 軽やかな「オリンピック・マーチ」のメロディーが鳴り響きます。


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 ギリシャを先頭に、最後の日本選手団まで94か国の選手団が、このマーチにのって入場行進を行いました。スタンドを割れんばかりの拍手と歓声さがつつみこみました。

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 そこには昭和天皇裕仁のお姿もありました。敗戦により、国民とともに苦しんできた天皇陛下。古関裕而の裕は天皇陛下の名前からつけていました。日本の復興を全世界に示すイベント東京オリンピック。

 国立競技場のスタンドで見ていた人にとって、そしてテレビで見た人にとっても、あの開会式の情景と古関裕而のオリンピック・マーチという音楽は、感動をともないながら一つになって心に刻み込まれた。

 古関裕而の音楽が灯したオリンピックの火は、大会が終わっても心のなかに小さな種火として灯り続け、消えることがない。

 開会式を見た人は、種火に新鮮な空気が吹き込まれると炎が上がるように、オリンピック・マーチを聴くたびに、選手たちが国立競技場の赤いトラックに入場するシーンを目に浮かべるのでした。

古関裕而は「開会式に選手が入場する一番最初に演奏され、しかもアジアで初めての東京大会であるということから、勇壮な中に日本的な味を出そうと苦心しました。そこで曲の初めの方は、はつらつしたものにし、終わりの部分で日本がオリンピックをやるのだということを象徴するために、『君が代』の一節を取り入れました。私の長い作曲生活の中で、ライフ・ワークと言うべきもので、一世一代の作として精魂込めて作曲しました」と話しています。

 古関裕而は晴れの舞台で自分の音楽が全世界にながれていったことで最高の喜びを感じていました。

 戦後の苦しい時代から明るい日本の未来のために「とんがり帽子」「長崎の鐘」「栄冠は君に輝く」等、次々と名曲を作り続けた古関裕而のまさに集大成が「東京オリンピックマーチ」でした。

 NHK連続ドラマ『エール』で主人公役の古山裕一さん戦後に入ってラジオにレコードに舞台に映画にといろんなところで頑張っています。

 自宅の彼の机の上は五線紙でところ狭しと埋め尽くされていました。ほんと作曲意欲は凄かったんですね。

 古山裕一のモデル古関裕而さんが「恋すれど恋すれど物語」のミュージカルの作曲をしていたのは1956(昭和31)ですから、あれから64年も経っています。

 今だに古関裕而の作曲した曲がながれてきています。こんなに長く愛され続けるテーマ曲があるとは、聴いてるだけで感動します。


※YouTubeより

■「日曜名作座」テーマ曲

 NHKラジオ第1毎週日曜 午後720分~750分から放送されてる「新日曜名作座」です。

 このラジオ番組のテーマ曲を作曲したのが古関裕而です。

 この番組のテーマソングは元々「日曜名作座」の「人生劇場青春編」用として古関が作曲したが、リスナーの反響が良かったため以後も番組のテーマソングとして使われ、後継「新日曜名作座」でも使われ続けているのです。

 優雅な曲の流れは大自然の広い中でのんびりとした憩いと癒しを与えてくれます。

 「新日曜名作座」の現在の語りは俳優の西田敏行さんと竹下景子さんです。

 当代の名優二人の「語り」の妙技で、一週間の疲れを解きほぐしながら時を忘れさせてくれます。

 最新のベストセラーから古典まで、選りすぐり名作は、心の栄養、人生の糧、明日への活力になるこ間違いありません。

 この番組の始まりは1957(昭和32)NHKのラジオ番組「日曜名作座」からでした。

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 俳優の森繁久弥さんと加藤道子のさんの二人だけで演じるラジオドラマからスタートしたのです。

 当時の放送は生放送でした。スタジオでテーマ曲や伴奏を古関さんがオルガンを弾きながら指揮し、オーケストラが演奏するのに立ち会った。楽団のバイオリンやトランペットなどの楽譜は、古関さんの弟子がパートごとに書き写して渡ていました。

 「日曜名作座」は1957年から2008年まで51年間も放送が続いたそうです。

 それにしても古関裕而さんのメロディは何年経っても色あせしないのはなぜなんでしょうか。彼の古関メロディの中にきっと時代に流されない普遍なものがあるからなのでしょう。



 

 1955(昭和30)東宝の創業者小林一三が菊田一夫を東宝に迎えていきなり取締役に抜擢しました。東宝の演劇を全部任された菊田は、1956(昭和31)から、第1回東宝ミュージカル「恋すれど恋すれど物語」(菊田一夫脚本・演出、古関裕而音楽)をはじめました。「泣きべそ天女」という飯沢匡さんの作品との2本立てでした。

 「恋すれど恋すれど物語」出演者は榎本健一(エノケン)、古川緑波(ロッパ)、越路吹雪、宮城まり子

等。注目は当時の喜劇王、エノケンとロッパの共演だった。

 お互いライバルとして戦前は浅草で人気を二分し、一切共演をしなかったが、戦後、1947(昭和22)にエノケン劇団とロッパ一座の合同公演にてついに初共演を果たしていた。

 その二人を迎えてのミュージカルだった。内容は時代劇のドタバタ喜劇でした。

 最初の台本では東宝喜劇「恋すれど恋すれど物語」だったのですが、代表の小林一三かわ「東宝喜劇」の「喜劇」を赤鉛筆で消されて「ミュージカル」と修正してしまった。

菊田一夫は本格ミュージカルをやりたかったので、この喜劇ミュージカルと名がつくことに思うところもあり社長に「これはアチャラカです」と言うと小林は「面白ければいいじゃないか」と言って「東宝ミュージカル」でいくことになってしまった。

 当時の笑いに飢えていた人々にうけないわけはなかった。「喜劇王」エノケンこと榎本健一は庶民の生まれ,軽妙な動きで観客を魅了した.「笑の王国」を率いた古川ロッパは華族の家柄,声帯模写で人気を博す.華やかなレビュー,しゃれた寸劇,パロディにナンセンス・ギャグ、浅草で花開きついには丸の内を席巻した。

 以後「東宝ミュージカル」として公演が十何回まで続きました。笑いあり、歌あり、踊りあり、それで最後にちょっと泣かせて、最後に必ず豪華なショー場面が付くもので、豪華な顔触れのスターたちばかりで観客は常にたくさん入っていました。

 1年に34本、新作が制作されて、そのほとんどの作品が菊田先生の脚本、古関先生の音楽によるものでした。

 このミュージカルの成功を受けて東宝で1956(昭和31)81日映画「恋する恋いする物語」は公開されています。

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監督:斎藤寅次郎、原作:菊田一夫東京宝塚劇場『恋すれど恋すれど物語』より

脚本:菊田一夫撮影:西垣六郎音楽:古関裕而美術:加藤雅俊出演:有島一郎、三木のり平、榎本健一、古川縁波、柳家金語楼、宮城まり子、雪村いづみ、大河内伝次郎物語:謎の壺を長崎から江戸まで運ぶ二人組(有島、三木)が繰り広げる珍道中。菊田一夫のミュージカルを映画化したオールスター時代物喜劇。いづみが歌で冒頭から盛り上げ、大物喜劇人に大笑い必至!

やはり、昭和初期の戦後の暗い世相の中で、お笑いだけが庶民の心を癒やしてくれる唯一の存在だったようです。

 1963(昭和38)1月には渥美清の「恋すれど恋すれど物語/もててもてて困ってしまう」がレコードで発売されました。

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 渥美清はご存知、映画「男はつらいよ」の風天の寅さんさんである。

渥美の歌の才能に目を付けたのは、当時コロムビアで井上ひろしや守屋浩を担当していた花形ディレクター、長田幸治氏であった。作曲は土橋啓二。ヒットにこそ至らなかったものの、この歌がきっかけとなり後に映画「男はつらいよ」に繋がることになる。

 それにしても榎本健一や古川ロッパ等、名だたる喜劇人たちは皆レコードも数多く吹き込んでおり、歌でもやはり一流なのです。そして渥美清もまた然り。もの凄く上手いというわけではないけれど、なんともいえない味わいがあって思わず聴き惚れてしまう。日本人なら知らない人はいないであろう寅さんのテーマソング「男はつらいよ」がその最たるものでした。

 お笑いとミュージカルなかなか繋がらないようですが、昔のテレビ番組「てなもんや三度笠」(196256日から1968331)まで朝日放送制作藤田まことや白木みのるが歌って踊って時代劇を繰り広げていた、そんな喜劇に繋がったのでしょう。

 古関裕而と菊田一夫が作った「恋すれど恋すれど物語」が昭和のテレビや映画の流れを作っていったのは間違いないのだと思います。

 NHK連続ドラマ『エール』華とロカビリー歌手アキラの恋の話しになっています。時代は昭和30年代後半の話しになっています。

 今日はドラマとは離れて古山裕一のモデルになった古関裕而さんの終戦直後のようすをみてみたいと思います。

古関裕而と終戦直前

 1945(昭和20)310日の東京大空襲である、もう一つは525日の山の手大空襲をうけて世田谷区代田の隣組の家屋まで焼けていました。

 古関家は無事だったが 「幸い我が家は焼け残ったが、隣組は焼かれた」 すぐ近くに空襲が迫ってるのを実感して これはヤバイと焦り「すぐ子供たちを福島の実弟の家へ疎開させた。 子供のない弟嫁に托し、妻は東京に残った」 戦況が悪化し、終戦間際の19456月、東京にいた古関は、娘2人を福島市の実家に疎開させました。7月には同市飯坂町の二階堂家に疎開先を変えた。古関の知人の実家であった当時の二階堂魚店の奥座敷で11月まで暮らしていました。金子は7月中旬から腸チフスにかかり、8月中旬まで福島市内の病院に入院。

 戦時中は汽車に乗るのが許可制だったが 古関はNHKと海軍省の特別通行証が与えられていたので 記者に乗ることも妻子が疎開をした福島へ直行することも出来た

古関裕而と終戦
 福島にいた古関は810日頃、 放送局に帰京を促され東京へ向かう 福島駅で顔見知りの記者に 「どうやら戦争が終わりそうです。日本が負けましたね」と教えてもらう 
 815日東北線で夜汽車に乗り、新橋駅に着いたところで玉音放送の時間だった。古関はそのまま放送局に出向き、自宅へ帰る 
 古関自伝本より
「降伏なら当分放送も休みだろうと思って自宅に帰った。 何の変わりなく家があるのにほっとした。 留守宅は弟子の土橋啓二君と母上が守ってくれた。 土橋君も兵隊になっていたが 「そのうち兵役解除で戻るだろうから 心淋しいだろうがお願いする」と土橋君の母上によく留守を頼んで 
福島に戻った」10時間もかかった。

 古関は8月から飯坂生活を始め、地元の人々に音楽を指導した。飯坂小の新校歌発表会では金子が歌い、長女がピアノ伴奏した。疎開先の二階堂さんは「古関一家が仲良く歌を歌う光景を覚えている」と語った。

終戦後初めての作曲は校歌

 古関裕而は戦後も作曲を続けていた。疎開先から自宅に帰ることになった10月、疎開先の飯坂小の校歌を作曲している。終戦後の作曲が校歌だったのは古関裕而らしい。

 二階堂さんは「今も校歌は忘れない。古関一家が懐かしい」と目を細めた。

 戦後初めての作曲は福島市の飯坂小学校校歌だった。

 福島市飯坂町の市立飯坂小で、同市出身の作曲家、古関裕而直筆の校歌の楽譜が見つかった。終戦直後に作られ、今では歌われなくなった「幻の四番」の歌詞も書かれている。古関は県内だけでも100校以上の校歌を作曲しているが、古関裕而記念館の氏家浩子学芸員は「戦後の混乱期、国民学校時代に作られた校歌は珍しい」と話している。

 ちなみに古関の疎開先の二階堂さんもドラマ『エール』の音を演じる二階堂ふみさんも同じ二階堂姓です。現神奈川県にあった相模国鎌倉郡二階堂が起源です。鎌倉時代から続くの由緒ある姓みたいです。

 偶然だとは思われますが、NHK連続ドラマ『エール』の音さん役の二階堂ふみさんと古関裕而一家の疎開先が二階堂さんのお宅だったとは不思議な縁ですね。

終わりに

 戦前の古関裕而さんNHKラジオ放送局との結びつきは、思った以上に深いものがあったようです。

 戦後もこの関係は続いていたと思われます。戦後はNHK放送局にGHQCIEが占拠し日本の音楽や文化を統制していましたから、古関裕而さんも戦前と同様に放送局の音楽関係を受けていたものと思われます。

 NHK連続ドラマ『エール』のドラマと史実の古関裕而さんはかなり違っていることがたくさんありますが、放送を通じて、古関裕而さんと言う人がどんな人だったか知れて、とても良かったと思います。

 NHK連続テレビ小説「エール」主人公、古山裕一(窪田正孝)、妻、音(二階堂ふみ)。今までドラマは古山の故郷、福島は古山が愛してやまなかったのですが、音の故郷、豊橋は古山はどう思っていたのでしょうか。

 優しくて音思いの裕一なのできっと音の故郷、豊橋もたいせつにしたのではないかと思います。

 古山裕一のモデル、古関裕而も妻、金子の故郷、豊橋をとても愛していたようです。

愛知大学交換音楽会

 終戦直後の1946(昭和21)年1115日、金子の故郷に愛知大学が創立します。翌1947(昭和22)年4月に授業を開始し、そのわずか2ヶ月後の616日、学生の力で豊橋市民との交流を目的とした音楽會が盛大に開催されました。


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 その音楽会に古関裕而はコロンビア軽音楽団を引き連れ指揮を振っています。

 しかも、歌手に同郷の伊藤久男も一緒に歌を歌っているのです。妻、金子の故郷を応援したい一心だったと思います。

 豊橋では戦後間もない焼け野原からの復興をめざし、市民が一丸となって努力している時期です。

 新たに誕生した愛知大学を広く市民に知ってもらうため、開学にあたり多大なるご支援をいただいた豊橋市の方々への文化貢献活動として企画された音楽會でした。

豊橋市歌

 1956(昭和31)豊橋市歌は豊橋市市制施行50周年の際に全国から歌詞を募集し、最終的に298編の応募のあった歌詞の中から現在の豊橋市歌の歌詞が選ばれました。

豊橋市歌

作詞:辰己 利郎/補詩:丸山 薫/作曲:古関 裕而

太平洋の 潮騒(しおざい)を

希望の歌と 聴くところ

脉(みゃく)打つ若さ はつらつと

伸びゆく力 たくましき

見よ躍進の 産業都

豊橋われら いざ挙(こぞ)れ


山なみ青き 三河野(みかわの)に

みのりは夢を 呼ぶほとり

装いここに 新しく

七彩虹も かがやける

見よ繁栄の 商業都

豊橋われら いざ誇れ


ゆたけき流 豊川(とよがわ)に

いにしえしのぶ 吉田城

歴史の絵巻 花に映え

文化と競う 美しき

見よあこがれの 観光都

豊橋われら いざ興せ

古関裕而と豊橋

 妻の金子が古関裕而に依頼し豊橋市歌の作曲をしています。

 古関は市歌制定の4年前にも豊橋観光協会が選定した「豊橋観光音に頭」(作詞・中林きみを)と「夢の豊橋」(作詞・河西新太郎)2曲を手掛けています。

 夫は妻の故郷を愛し、妻は夫の故郷を愛す。これが夫婦円満の秘訣のようです。

 古関裕而先生はいつも優しく妻の金子を思い、妻の故郷もたいせつにしていたようですね。


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