ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

 NHK連続ドラマ『エール』主人公、古山裕一は病に伏す妻、音(二階堂ふみさん)の療養のため、東京を離れて静かな生活を送っていた。

 ドラマの中の音さんは明るくて元気でいつも主人公を支えてくれていました。声楽を断念しなければならなかったのは残念でしたが、古山にとってはなくてはならない存在でした。

 音のモデル古関裕而さんの奥さんもご主人を支えてくれる素敵な女性でした。しかも才能は多彩で、パワフルな女性でした。

古関金子の多彩な才能

 古関裕而の金子さんの才能は音楽だけではなく、詩も書いており、1958(昭和33年)に「婦人文芸」に参加し、後に委員となり、詩や随筆を寄稿した。1960(昭和40)に「にあいなめ」の同人となり、1964(昭和44)に詩集「極光」を発売しています。

 また、古関金子は絵にも才能を発揮しており、夫・古関裕而も影響を受けてスケッチを取るようになっていました。

 古関金子さんは1971(昭和46年)に油絵の裸婦像『揺炎』が新槐樹社展(東京都美術館)に入選していました。

 音楽の才能もあり、文学や絵画の才能もあり、株の世界では「百戦錬磨の利殖マダム」と呼ばれていました。古関金子さんもあちこちに大活躍をされていました。

 まさに、天下無敵のスーパーレディでした。ほんとドラマの音以上の人物だったようです。

 この頃から古関裕而がフジテレビの音楽番組「オールスター家族対抗歌合戦」の審査員として司会者の萩本欽一と一緒にお茶の間のテレビに登場するようになりました。1972(昭和47)。この番組には古関は1984624日降板するまで勤めていました。

 しかし、古関金子はご主人や家族を支え、パワフルな活動を続けた古関金子さんでしたが、やはり病には勝てなかったようです。

 1976(昭和51)に乳がんが判明し日本赤十字医療センター、東京大学医学部附属病院、国立ガンセンターに2度の手術を受け、闘病生活を開始します。

古関裕而、初の福島名誉会員

 1979(昭和54)福島市出身であり、昭和を代表する作曲家である古関裕而が、作曲生活50周年を迎えるとともに、「オリンピック・マーチ」「栄冠は君に輝く」「スポーツショー行進曲」など、誰もが一度は耳にしたことのある、数々の名曲を世に送り、郷土福島を広く紹介した功績が認められ、初の名誉市民として推戴されました。

 古関裕而と妻金子は二人で仲良く推戴式に参加しています。この時の金子さんは和服姿でした。

 故郷の福島を心の中から愛してやまなかった古関裕而、ほんとうに嬉しくてたまらなかったようです。

 古関裕而は「いつもふる里の吾妻山や信夫山、阿武隈川を思い出して作曲してきました。福島市に生まれ育って本当に良かった。これからも作曲活動を通して、市のため仕事を続けていきます。」と述べています。

 それから、40年以上が経ちますが、今をもっても福島市名誉市民は古関ただ一人であり、それだけ古関が偉大な存在であることがうかがい知れます。

古関金子死去

 1980(昭和55)6月に開かれた古関裕而の作曲家50年を祝う会には、入院中で出席できなかった。

古関金子は最期の入院のとき、絵を描くために道具を持ち込んでいたが、病室の日当たりが悪く、暗かったので、落ち込んでしまい、そのまま歩かなくなり

 1980(昭和55年)7月に死去し68歳だった。

 夫・古関裕而は非常に落ち込み、葬儀の時の挨拶も、小さな声で「大変お世話になりました」と述べただけだった。

終わりに

 フジテレビの音楽番組「オールスター家族対抗歌合戦」の審査員とし古関裕而先生の顔はいつもにこにことテレビに映っていました。ああ、この人はいつも幸せなんだなと思っていました。

 しかし、テレビの番組に出ておられる間、奥さんの金子さんの病気が判明し入院し、最後はお亡くなりになったたいへんな時期だったようです。

 古関裕而のもとに開会式用の曲の依頼があったのは、昭和39年2月。オリンピック組織委員会とNHKからの「日本的なもの」という注文に対して、古関は雅楽や民謡を取り入れることを考えた。

image


 「日本的なもの」とは何だろうか。

 戦後、アメリカの占領になり、今までの日本はどんどんと変わってきた。すなわち、日本的なものを破壊することで西洋的な発展をしてきた。古い日本から新しい日本に生まれ変わろうとしてる時代でした。

 日本に於いて普遍的なものはなにか。たどり着いた結論が日本国歌「君が代」でした。約2600年の歴史を持つ日本の延々と続く日本人の底にあるものとして選んだのでした。

 しかし、そこにはいろんな葛藤もあったのも事実です。国家のため召集された人々が戦争で多くの犠牲となったのですから、しかし戦争で傷ついた人たちを励まし、勇気づける曲を作ることが、自分の責務だと思ったのでした。東京オリンピックマーチの演奏の一番最後に 君が代のメロディーを挿入したのでした。

 曲の最後に「君が代」の旋律が挿入されています。漫然と聞いていると気付かないかもしれないですが、「オリンピック・マーチ」を聞く時は、注意深く耳を澄ませてみて下さい。

 この手法は戦前のスポーツ音楽の雄、山田耕筰が、昭和7年に開催されたロサンゼルスオリンピックのために作曲した、派遣選手への応援歌『走れ大地を』で取り入れたテクニックでもありました。

 山田耕筰に憧れて作曲家になり、自分のペンネームの中に昭和天皇の名前「裕」を入れ、日本国のため日本国民のために全ての力を出して作曲したのでした。

 そうして、作曲が完成すると古関裕而は大変興奮し、そして、苦心して曲ができあがった時、「会心の作だ」と言ったそうです。

 1963年東京オリンピックはまさに日本の生まれ変わった姿を全世界にアピールする絶好の場面となったのです。

image


東京オリンピックの開催宣言

安川第ゴロ東京オリンピック組織委員会会長挨拶

待望久しい第18回オリンピック競技大会が本日より15日間にわたり、開催されることになりましたことは誠に喜ばしい限りであります。あたかも本年は近代オリンピック復興70周年に当たりますのでこれを記念し皆様と共に近代オリンピックの父、クーベルタン男爵のありし日の声を傾聴して氏の偉業を追想したいと存じます。・・(ここでピエール・ド・クーベルタン男爵のメッセージを録音したテープが流れる)・・オリンピック東京大会はアジアで開催される初めての大会でありますが、幸いこれまでにない多数の選手団の参加をみましたことは誠にご同慶にたえない次第であります。願わくはオリンピック精神に則り、正々堂々たる競技が展開されることを期待してやみません。最後にここにおられる国際オリンピック委員会のアベリー・ブランデージ会長から天皇陛下に第18回オリンピック競技大会の開会宣言を賜りますようお願いしていただきたく、ご依頼申し上げます。

アベリー・ブランデージ国際オリンピック委員会(IOC)会長挨拶

ワタクシハ 1896ネン ピエール・ド・クーベルタン ダンシャク  ヨッテフッカツサレタ キンダイオリンピック  ダイ18カイ キョウギタイカイ  カイカイセンゲン ココニツツシンデ テンノウヘイカ  オネガイモウシアゲマス

(私は1896年ピエール・ド・クーベルタン男爵によって復活された近代オリンピックの第18回競技大会の開会宣言をここに謹んで天皇陛下にお願い申し上げます。)

昭和天皇開会宣言(午後258分)。

18回近代オリンピアードを祝い、ここにオリンピック東京大会の開会を宣言します。

終わりに

 NHK連続ドラマ『エール』では、主人公古山裕一が「東京オリンピックマーチ」を作曲するところまできました。今回の朝ドラもそろそろ終わりとなってきました。

最後に「東京オリンピックマーチ」の作曲で来年の東京オリンピックを迎えることになるなんてNHKさんもなかなかいきなことをやるもんですね。

 日本では寒くなってきて、コロナが増えていますが、あとは来年無事に東京オリンピックを迎えられることを祈るばかりです。

 NHK連続ドラマ『エール』主人公古山裕一は娘の華とアキラの結婚を認めます。そしてビックイベント東京オリンピックマーチを作曲することになります。

 今日は古山裕一のモデル古関裕而さんの東京オリンピックマーチのお話しをしてみたいと思います。

古関裕而と映画「史上最大の作戦」             

 古関裕而にオリンピック・マーチ作曲の依頼があったのは、大会の2年前1962(昭和37)の秋頃でした。

アジア初のオリンピック競技大会におけるマーチを作ることに対して、非常に喜んでいました。

 同年1215日の洋画「史上最大の作戦」が公開されビックヒットしました。古関裕而も妻と二人で観に行っています。そのテーマソングは優れたマーチで、誰でも一度聞いたら忘れられない明るくて軽快な行進曲でした。

 映画が終わって古関裕而の妻、金子「すごく良いマーチだったわよ。あなたオリンピック・マーチ大丈夫なの?」

 古関裕而は「大丈夫だよ。」と答えたとのことです。

 オリンピックマーチの作曲者の発表があったのは翌年の春には発表されていましたが、公の演奏は1964年の開会式まで一度も行なわれることはありませんでした。

 家族でも開会式まで一度も耳にしたことがなかったそうです。

 古関裕而の息子正裕さん「父は作曲する時に楽器を使わないんです。だから、家族ですらどんな曲を作曲しているのかわかりませんでした。」と話しています。

東京オリンピック


image


 1964(昭和39)はまさにオリンピックの年でした。


image


 全国を聖火ランナーが駆け巡り、東京の国立競技場に聖火を運んで行きました。否が応でも、国民の期待と興奮は高まってきていました。


image


 19641010日(土曜日)当日、午後2時、73,000人の大観衆を集めた国立競技場。


image


 軽やかな「オリンピック・マーチ」のメロディーが鳴り響きます。


image

 ギリシャを先頭に、最後の日本選手団まで94か国の選手団が、このマーチにのって入場行進を行いました。スタンドを割れんばかりの拍手と歓声さがつつみこみました。

image


 そこには昭和天皇裕仁のお姿もありました。敗戦により、国民とともに苦しんできた天皇陛下。古関裕而の裕は天皇陛下の名前からつけていました。日本の復興を全世界に示すイベント東京オリンピック。

 国立競技場のスタンドで見ていた人にとって、そしてテレビで見た人にとっても、あの開会式の情景と古関裕而のオリンピック・マーチという音楽は、感動をともないながら一つになって心に刻み込まれた。

 古関裕而の音楽が灯したオリンピックの火は、大会が終わっても心のなかに小さな種火として灯り続け、消えることがない。

 開会式を見た人は、種火に新鮮な空気が吹き込まれると炎が上がるように、オリンピック・マーチを聴くたびに、選手たちが国立競技場の赤いトラックに入場するシーンを目に浮かべるのでした。

古関裕而は「開会式に選手が入場する一番最初に演奏され、しかもアジアで初めての東京大会であるということから、勇壮な中に日本的な味を出そうと苦心しました。そこで曲の初めの方は、はつらつしたものにし、終わりの部分で日本がオリンピックをやるのだということを象徴するために、『君が代』の一節を取り入れました。私の長い作曲生活の中で、ライフ・ワークと言うべきもので、一世一代の作として精魂込めて作曲しました」と話しています。

 古関裕而は晴れの舞台で自分の音楽が全世界にながれていったことで最高の喜びを感じていました。

 戦後の苦しい時代から明るい日本の未来のために「とんがり帽子」「長崎の鐘」「栄冠は君に輝く」等、次々と名曲を作り続けた古関裕而のまさに集大成が「東京オリンピックマーチ」でした。

 NHK連続ドラマ『エール』で主人公役の古山裕一さん戦後に入ってラジオにレコードに舞台に映画にといろんなところで頑張っています。

 自宅の彼の机の上は五線紙でところ狭しと埋め尽くされていました。ほんと作曲意欲は凄かったんですね。

 古山裕一のモデル古関裕而さんが「恋すれど恋すれど物語」のミュージカルの作曲をしていたのは1956(昭和31)ですから、あれから64年も経っています。

 今だに古関裕而の作曲した曲がながれてきています。こんなに長く愛され続けるテーマ曲があるとは、聴いてるだけで感動します。


※YouTubeより

■「日曜名作座」テーマ曲

 NHKラジオ第1毎週日曜 午後720分~750分から放送されてる「新日曜名作座」です。

 このラジオ番組のテーマ曲を作曲したのが古関裕而です。

 この番組のテーマソングは元々「日曜名作座」の「人生劇場青春編」用として古関が作曲したが、リスナーの反響が良かったため以後も番組のテーマソングとして使われ、後継「新日曜名作座」でも使われ続けているのです。

 優雅な曲の流れは大自然の広い中でのんびりとした憩いと癒しを与えてくれます。

 「新日曜名作座」の現在の語りは俳優の西田敏行さんと竹下景子さんです。

 当代の名優二人の「語り」の妙技で、一週間の疲れを解きほぐしながら時を忘れさせてくれます。

 最新のベストセラーから古典まで、選りすぐり名作は、心の栄養、人生の糧、明日への活力になるこ間違いありません。

 この番組の始まりは1957(昭和32)NHKのラジオ番組「日曜名作座」からでした。

image


 俳優の森繁久弥さんと加藤道子のさんの二人だけで演じるラジオドラマからスタートしたのです。

 当時の放送は生放送でした。スタジオでテーマ曲や伴奏を古関さんがオルガンを弾きながら指揮し、オーケストラが演奏するのに立ち会った。楽団のバイオリンやトランペットなどの楽譜は、古関さんの弟子がパートごとに書き写して渡ていました。

 「日曜名作座」は1957年から2008年まで51年間も放送が続いたそうです。

 それにしても古関裕而さんのメロディは何年経っても色あせしないのはなぜなんでしょうか。彼の古関メロディの中にきっと時代に流されない普遍なものがあるからなのでしょう。



 

 1955(昭和30)東宝の創業者小林一三が菊田一夫を東宝に迎えていきなり取締役に抜擢しました。東宝の演劇を全部任された菊田は、1956(昭和31)から、第1回東宝ミュージカル「恋すれど恋すれど物語」(菊田一夫脚本・演出、古関裕而音楽)をはじめました。「泣きべそ天女」という飯沢匡さんの作品との2本立てでした。

 「恋すれど恋すれど物語」出演者は榎本健一(エノケン)、古川緑波(ロッパ)、越路吹雪、宮城まり子

等。注目は当時の喜劇王、エノケンとロッパの共演だった。

 お互いライバルとして戦前は浅草で人気を二分し、一切共演をしなかったが、戦後、1947(昭和22)にエノケン劇団とロッパ一座の合同公演にてついに初共演を果たしていた。

 その二人を迎えてのミュージカルだった。内容は時代劇のドタバタ喜劇でした。

 最初の台本では東宝喜劇「恋すれど恋すれど物語」だったのですが、代表の小林一三かわ「東宝喜劇」の「喜劇」を赤鉛筆で消されて「ミュージカル」と修正してしまった。

菊田一夫は本格ミュージカルをやりたかったので、この喜劇ミュージカルと名がつくことに思うところもあり社長に「これはアチャラカです」と言うと小林は「面白ければいいじゃないか」と言って「東宝ミュージカル」でいくことになってしまった。

 当時の笑いに飢えていた人々にうけないわけはなかった。「喜劇王」エノケンこと榎本健一は庶民の生まれ,軽妙な動きで観客を魅了した.「笑の王国」を率いた古川ロッパは華族の家柄,声帯模写で人気を博す.華やかなレビュー,しゃれた寸劇,パロディにナンセンス・ギャグ、浅草で花開きついには丸の内を席巻した。

 以後「東宝ミュージカル」として公演が十何回まで続きました。笑いあり、歌あり、踊りあり、それで最後にちょっと泣かせて、最後に必ず豪華なショー場面が付くもので、豪華な顔触れのスターたちばかりで観客は常にたくさん入っていました。

 1年に34本、新作が制作されて、そのほとんどの作品が菊田先生の脚本、古関先生の音楽によるものでした。

 このミュージカルの成功を受けて東宝で1956(昭和31)81日映画「恋する恋いする物語」は公開されています。

image


監督:斎藤寅次郎、原作:菊田一夫東京宝塚劇場『恋すれど恋すれど物語』より

脚本:菊田一夫撮影:西垣六郎音楽:古関裕而美術:加藤雅俊出演:有島一郎、三木のり平、榎本健一、古川縁波、柳家金語楼、宮城まり子、雪村いづみ、大河内伝次郎物語:謎の壺を長崎から江戸まで運ぶ二人組(有島、三木)が繰り広げる珍道中。菊田一夫のミュージカルを映画化したオールスター時代物喜劇。いづみが歌で冒頭から盛り上げ、大物喜劇人に大笑い必至!

やはり、昭和初期の戦後の暗い世相の中で、お笑いだけが庶民の心を癒やしてくれる唯一の存在だったようです。

 1963(昭和38)1月には渥美清の「恋すれど恋すれど物語/もててもてて困ってしまう」がレコードで発売されました。

image


 渥美清はご存知、映画「男はつらいよ」の風天の寅さんさんである。

渥美の歌の才能に目を付けたのは、当時コロムビアで井上ひろしや守屋浩を担当していた花形ディレクター、長田幸治氏であった。作曲は土橋啓二。ヒットにこそ至らなかったものの、この歌がきっかけとなり後に映画「男はつらいよ」に繋がることになる。

 それにしても榎本健一や古川ロッパ等、名だたる喜劇人たちは皆レコードも数多く吹き込んでおり、歌でもやはり一流なのです。そして渥美清もまた然り。もの凄く上手いというわけではないけれど、なんともいえない味わいがあって思わず聴き惚れてしまう。日本人なら知らない人はいないであろう寅さんのテーマソング「男はつらいよ」がその最たるものでした。

 お笑いとミュージカルなかなか繋がらないようですが、昔のテレビ番組「てなもんや三度笠」(196256日から1968331)まで朝日放送制作藤田まことや白木みのるが歌って踊って時代劇を繰り広げていた、そんな喜劇に繋がったのでしょう。

 古関裕而と菊田一夫が作った「恋すれど恋すれど物語」が昭和のテレビや映画の流れを作っていったのは間違いないのだと思います。

↑このページのトップヘ