ケイのblog

愛媛県の宇和島出身。現在は横浜市で会社勤務。NHK連続ドラマ『エール』裕一(窪田正孝)音(二階堂ふみ)の主人公とその他ドラマ登場人物をモデル、古関裕而と妻金子の史実と時代背景を比較しながら、このブログでもっとドラマが楽しく見られたらいいなと思っています。

NHK朝の連続ドラマ『エール』■音の母、光子(薬師丸ひろ子)の台詞「二人が接吻しているのを見ちゃったの。汽車はもう走りだした。止まりません。…頭はダメって言ってるけど、心はいいって言ってるの。だから私は認める」こんな無茶苦茶な台詞。テレビドラマで観たことはありません。明かにテレビ劇場芝居■面白いです。私が勝手気ままに書いているブログです。でひ読んでみてください。

1952(昭和27)410日より始まったNHKドラマ「君の名は」は戦後

菊田一夫と古関裕而の名コンビが作った最高傑作作品になった。

毎回ドラマの冒頭に流れる音楽と

「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」

のナレーションはいつまでも耳に残って離れない。忘れたいのに忘れられない恋の哀しみを描いたメロドラマは戦後の日本人の多くに受け入れられていた。

■NHKラジオドラマ「君の名は」

戦時中B-29の空爆によって東京の都心が燃え上がり、ビルが崩れるなか、名前さえ知らない二人が運命的に出会い春樹と真知子は体をかばい合うように逃げた2人。

日本の誰もが経験した空襲の中逃げまどった経験をした記憶が蘇る。

戦火を逃れた2人は、「もし生き延びていたら、半年後の1124日にここで再会しよう」と約束し別れていく。

ここは銀座の数寄屋橋。

当時はまだ本当に橋があり、下には川が流れていた頃の話しである。

春樹は別れ際「君の名は」と聞いたが、彼女は名を言わず立去る。

運命的な出会いと別れ。

これがいい。

ラジオを聞いている日本国中の人が、二人がまた、出会い結ばれることを願うのでした。

春樹と真知子の愛情は時間が経っても一向に冷めない。

それは運命に翻弄されるように2人の前に次々と障害が立ちはだかる。

真知子

「あなたがいらっしゃるから、この世から姿を消すなんて、あまりに悲しゅうございます」

春樹

「愛情ってものは現実の幸不幸の問題じゃない。それを超えたことです。たとえどんなに不幸になろうとも、あなたに対する愛情を失うことはできません」

半年後の約束の夜、真知子は遂に現われなかった・・・。

なんで、うまくいかないの。

様々な障害の為、なかなか出会うことのできず、眞知子は心ならずも他の男と結婚してしまう・・・。

結婚後も忘れられない二人。

だが、すれ違いながらも互いを思わずにいられないさまは、とてつもなく切ないストーリー。

「互いに思い合いながらも、すれ違う2人」

すれ違いを繰り返し、結ばれそうで結ばれないから、よけいに想いはつのる。

誰しもが運命的に出会い愛しあう二人に結ばれて欲しいと思うだけにドラマを聞き続けた名作でした。


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映画「君の名は」

『君の名は』のラジオ放送時間になると街の銭湯の女湯がガラあきになったと言われたラジオドラマを1953年(昭和28)に松竹が映画にしました。

主人公の後宮春樹と氏家真知子とを佐田啓二と岸恵子とが演ずるこの映画は、その翌年の1954年〈昭和29)にかけて3本制作され、この3部作で合計3,000万人の観客を動員するほどの大ヒットとなっています。

3部作の公開時期と配給収入は以下の通りです。

君の名は(第一部)。公開:1953915日。配給収入:25047万円。1953年度の配給収入ランキング第2位。

君の名は(第ニ部)。公開:1953121日。配給収入:30002万円。1953年度の配給収入ランキング第1位。

君の名は(第三部)。公開:1954427日。配給収入:33015万円。1954年度の配給収入ランキング第1位。

昭和27年、28年には「君の名は」は社会現象となり真知子巻きや主題歌はあちこちで歌われ一大ブームとなりました。

主題歌「君の名は」

「君の名は」

歌手:細井茂子

作詞:菊田一夫

作曲:古関裕而

台詞

忘却とは 忘れ去ることなり

忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ

君の名は……と たずねし人あり

その人の 名も知らず

今日砂山に ただひとり来て

浜昼顔に きいてみる

終わりに

菊田一夫氏とのコンビで昭和22(1947)年以降は放送作品に力をそそぎ、NHKラジオ・ドラマ「鐘の鳴る丘」「さくらんぼ大将」「君の名は」等の主題歌を発表し一世を風靡したことはあまりにも有名です。

こうした数々の放送関係における業績により同28(1953)NHK放送文化賞を受賞しました。

戦後の日本社会を明るく前向きな社会にしたのは菊田一夫と古関裕而のコンビと言っても過言はないのかも知れません。

新国劇「長崎」

1946(昭和21)菊田一夫の新国劇 「長崎」の中で、カフェの女 給が歌うシーンの歌が必要と なり、菊田の詞では常連だっ た作曲家の古関裕而に「大至 急作ってくれ」の依頼で、急遽作曲されている。 

天性のメロディー・メーカー古関は、このとき、菊田 一夫の詞を一読して、 「菊田さんらしい抒情とロマ ンティックな情熱のある美し い詞だ」と、大いに作曲意欲をそそ られ、長崎の風景をイメージ によみがえらせ、曲想を練っ たという。

菊田一夫と古関裕而の2人は既にあうんの名コンビとなっていた。

古関裕而の知る長崎は、原爆で破 壊されるはるか前の昭和十年 頃で、当時の長崎の街には南 国の香りと、異国情緒があふ れていた。


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オランダ坂

幕末の開国で長崎に居留地が出来たとき、長崎の人は東洋人を除く外国人を「オランダさん」と呼んでいました。

文久2年(1862)、大浦石橋から英国聖公会会堂(教会、現在の海星高校の下)に至るゆるやかな坂道が造られ、日曜ごとに大勢の外国人がこの道を歩いて教会に通いました。

活水下の道も含めて「オランダ坂」と呼ぶようになりました。

オランダ坂は長崎の歌に数多く歌われています。

「雨のオランダ坂」

クラシックに造詣が深い古 関は、「雨のオランダ坂」の 間奏に、プッチーニの長崎を 舞台にした『マダム・バタフ ライ』の有名なハミングコーラスの一部も取り入れて、情 緒を盛り上げることも忘れな かった。

作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、唄:渡辺はま子

こぬか雨ふる 港の町の

青いガス灯の オランダ坂で

泣いて別れた マドロスさんは

しまのジャケツに オイルのコート

けむにむせてか 泣いていた 泣いていた

渡辺はま子だったが、 三拍子で歌って間奏に四拍子 の独特な味付けを試みた「雨のオランダ坂」は、作曲家自 身をして会心の作と言わしめ る文字通りの佳曲に仕上って いた。


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映画「地獄の顔」

翌年の昭和二十二年には同 じ菊田一夫原作の松竹映画 『地獄の顔』

でこれは昭和21年(1946)に長崎市内のロケで作られた映画「地獄の顔」当時の人気俳優、水島道太郎(みずしま・みちたろう)と月丘夢路(つきおか・ゆめじ)・千秋(ちあき)姉妹が初共演して話題を集めました。「夜霧のブ ルース」「長崎エレジー」「夜 更けの街」とともに劇中歌と して使われたが特にヒットしたのは映画の主題歌「オランダ坂」だった。

古関裕而は

「東宝劇場、芸術座、帝国劇場、新宿コマ劇場、明治座での舞台音楽や、念願だったミュージカル作曲、さらには映画の主題歌やラジオ・テレビのテーマソングと、多忙な中にも実に楽しい愉快な日々の連続であった」と述べた。

二人のコンビによる仕事は、古関の作曲生活の半分以上を占めたものであったが、36年間にわたった二人三脚の日々も、昭和49年の菊田一夫の死去によって終止符が打たれる。

菊田一夫と一緒に仕事をしていた時期が古関裕而にとっも最高に楽しかった日々だったようです。


 

NHKの前身である日本放送協会は、古関裕而さんに南方慰問団への参加を依頼し、古関さんはこれに参加しています。

南方慰問団旅立ち

1942(昭和17)108日(木曜)晴、NHKラジオ「宮本武蔵」の朗読で人気を博していた徳川夢声を団長とした36名は、は東京駅で放送局関係、蓄音機会社関係の人など大勢に見送られ、奈良見物や大阪陸軍病院の慰問などを終え14日に大阪港から楽洋丸(1万トン)に乗船し瀬戸内海を経由して南方に向かいました。

危険な船旅

昭和176月、ミッドウェー海戦で米軍 (連合軍) に敗北し、制空権、制海権を奪われ後退に転じてからは、敵の潜水艦や航空機の攻撃による喪失は予想をはるかに上回るものとなっていた。

南方慰問団は翌日は全員が甲板に集められて魚雷が命中した場合などの退船方法や漂流したときの諸注意を聞いて震え上がりました。

「魚雷も一発や二発では20分や30分は沈まない」という説明で少しは安心するが、あとで5分で沈没した船もあるとか、船団の2番船がいちばん狙われるという情報も伝わる。

この船が2番船だと知るとさらに不安が募る。

それでも無事、慰問団は香港から仏印サン・ジャック(現・ベトナム、ブンタウ)に入港した。

直前には「敵潜現ル!」という緊急警報が出されて全員が救命胴衣を着たあとでクジラだったこが判明したり命がけの旅です。

徳川夢声入院

マラッカ海峡から昭南(=現・シンガポール)に到着して慰問を重ねます。

古関裕而は「露営の歌」などの指揮を執り前線の兵士たちを慰問しています。

団長の徳川夢声は「妙にだるく、熱があり、もしかしたらデング(熱)かマラリアやられたのではないか」という自覚症状が出て、昭南陸軍病院に担ぎ込まれ、ここで1か月の入院。

なんとか回復すると年末1231日に昭南駅を発ってクアラルンプール(現・マレーシア)着。昭和18年の元旦をここで迎えました。

■映画「風と共に去りぬ』

この時、見舞いに来た古関裕而に徳川夢声は、驚くべきことを話します。

「この戦争は、負けるかもしれんよ……

古関がその理由を聞くと、陸軍病院で観たGone With The Wind「風と共に去りぬ」という映画の話をします。

得意の美声で、その主題歌を歌い出すのです。

「こんな映画を作る国に、戦争で勝てるわけがない……

当時の一流の文化入の徳川夢声には戦争相手国の文化の力がわかりました。

さらに徳川夢声は

「まさに映画による一大叙事詩だね。総天然色の映像もすばらしい。それ以上に古関君、君には悪いが音楽がすばらしい」

タラのテーマを口ずさみ熱っぽく語る様子からは、見る者を圧倒した作品の力が伝わりました。

映画を含めた娯楽や芸術は時代を映す鏡。

アメリカ映画「風と共に去りぬ」が戦時下の敵国の人の心をも動かしたのは、普遍的な魅力もあったからでしょう。

古関裕而さんは徳川夢声さんの話しを聞いてどのように思ったのでしょうか。

命がけの慰問団

帰国の途に着いたのは110日。昭南港を「安芸丸」で出港、潜水艦攻撃を避けるため船団は組まず昼夜ジグザグコースで走り、119日にようやく無事に瀬戸内海に入ったのでした。

南方慰問団は何度もの「敵潜現ル!」の警報が出るたびに救命胴衣を引っぱり出し魚雷が命中に備えたりでたいへんでした。

徳川夢声「朝、昼、夜とも、馬ケツで運ばれる汁と飯とお菜で、豚の如く食う。3日に2本ぐらいの割でビールの配給があるは有難し。夜に入るや厳重なる灯火管制、うっかり煙草を喫うと<馬鹿野郎>を食う」と語っています。

南方慰問団は命がけの旅でした。

古関裕而さんの南方慰問は決して楽な旅ではなかったようです。

日本での徴兵制が開始されるのは1873(明治6)月の太政官布告による「徴兵令」制定から、1927(昭和2)徴兵令は「兵役法」に改正された。

17歳以上40歳までの日本国民は、次の者(一部の例外)以外は兵隊にとられるということになっていました。

兵役不適格者兵役検査で丁種とされた者

兵役免除者重度の身障者

徴兵延期者病気や未成熟で翌年再検査の者合格すれば兵役に。

女性職業としての従軍看護婦等は除く。

召集とは、現役以外の兵役にある者を軍務(軍隊勤務)につかせる事を言います。(令状が赤色だったので、召集令状のことを赤紙と呼んだ)

日本の徴兵制度は1945(昭和20)敗戦とともに撤廃となっています。

古関裕而の招集はあったのか?

NHK連続ドラマ『エール』主人公古山裕一(窪田正孝)モデル古関裕而に赤紙は届いたのでしょうか。

軍部の依頼で次々と軍歌(戦時歌謡曲)の作曲をし、軍部に協力した古関裕而さんですし、年齢も戦争の激しい時代にはもう30代になっていたので、彼は除外の対象になったのかと思いましたが、世の中はそんなあまいものではないようです。

1945 (昭和20)33月、硫黄島が陥落し、その数日後に古関の元へ赤紙が届きました。

古関裕而さん36歳の時です。

当時、36歳は老兵であったため、日本軍が逼迫した状況であったのを物語っております。そして、古関は横須賀海兵団に派遣されます。

同年8月に終戦となりますが、古関裕而さんや古関金子さんにとっても、たいへんな時代だったと思います。

国民の17歳から40歳までもが戦争に取られなていった時代なのです。

「暮らしの手帳」編集長花森安治の赤紙は届いたのでしょうか?

NHK連続ドラマ『とと姉ちゃん』の「あなたの暮らし」編集長花山伊佐次(唐沢寿明)モデル花森安治は1937(昭和12)東京帝国大学を卒業後

同年、徴兵検査にて甲種合格。秋赤紙が届きました。

北満州の部隊に配属された。1938(昭和13)2月、結核で満州の陸軍病院に入院。

病状が良くなないため、内地に戻され、和歌山県の陸軍病院で療養生活を送った。その後、1940(昭和20)に疾病を理由として除隊となってます。

『エール』と『とと姉ちゃん』の繋がり

あれあれ、ここでNHK連続ドラマ『エール』と『とと姉ちゃん』が微妙に繋がってきました。

『エール』では父親古山三郎役の唐沢寿明さん『とと姉ちゃん』ではカリスマ編集長役花山伊佐次を演じていました。

しかも『エール』の主人公モデル古関裕而さんは戦時中、軍歌(戦時歌謡)を作り次々とヒットさせた人物。『とと姉ちゃん』の編集長モデル花森安治さんは戦時中は大政翼賛会にて「ぜいたくは敵だ」「欲しがりません勝までは」のスローガンを作った人物でした。

NHKはここまで計算してキャスト設定をしたのでしょうか。

『エール』と『とと姉ちゃん』の唐沢寿明さんの絶妙な配役はただただ驚きとしか言いようがありません。

1945(昭和20)敗戦となって古関裕而さんも花森安治さんもきっと二人とも同じ青空を眺めながら平和の大切さをかみしめたのでしょう。

終わりに

花森安治さんの「一銭五厘の旗」に全てが書かれているようなので書き写します。

一銭五厘とは招集令状(赤紙)が送られてくる郵便の切手代金です。7円は1970年のハガキの代金。


「一銭五厘の旗」 花森安治


美しい夜であった

もう 二度と 誰も あんな夜に会うことは ないのではないか

空は よくみがいたガラスのように

透きとおっていた

空気は なにかが焼けているような

香ばしいにおいがしていた

どの家も どの建物も

つけられるだけの電灯をつけていた

それが 焼け跡をとおして

一面にちりばめられていた

昭和20815

あの夜

もう空襲はなかった

もう戦争は すんだ

まるで うそみたいだった

なんだか ばかみたいだった

へらへらとわらうと 涙がでてきた 


どの夜も 着のみ着のままで眠った

枕許には 靴と 雑のうと 防空頭巾を並べておいた

靴は 底がへって 雨がふると水がしみこんだが ほかに靴はなかった

雑のうの中には すこしのいり豆と

三角巾とヨードチンキが入っていた

夜が明けると 靴をはいて 雑のうを肩からかけて 出かけた 

そのうち 電車も汽車も 動かなくなった

何時間も歩いて 職場へいった 

そして また何時間も歩いて

家に帰ってきた

家に近づくと くじびきのくじをひらくときのように すこし心がさわいだ 

召集令状が 来ている 

でなければ 

その夜 家が空襲で焼ける 

どちらでもなく また夜が明けると

また何時間も歩いて 職場へいった

死ぬような気はしなかった

しかし いつまで生きるのか

見当はつかなかった

確実に夜が明け 確実に日が沈んだ

じぶんの生涯のなかで いつか

戦争が終るかもしれない などとは

夢にも考えなかった


その戦争が すんだ

戦争がない ということは

それは ほんのちょっとしたことだった

たとえば 夜になると 電灯のスイッチをひねる ということだった 

たとえば ねるときには ねまきに着かえて眠るということだった 

生きるということは 生きて暮すということは そんなことだったのだ 

戦争には敗けた しかし 

戦争のないことは すばらしかった

さて ぼくらは もう一度

倉庫や 物置きや 机の引出しの隅から

おしまげられたり ねじれたりして

錆びついている〈民主々義〉を 探しだしてきて 錆びをおとし

部品を集め しっかり 組みたてる

民主々義の〈民〉は 庶民の民だ

ぼくらの暮しを なによりも第一にする ということだ

ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら

企業を倒す ということだ

ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら

政府を倒す ということだ

それが ほんとうの〈民主々義〉だ

政府が 本当であろうとなかろうと

今度また ぼくらが うじゃじゃけて

見ているだけだったら

七十年代も また〈幻覚の時代〉になってしまう

そうなったら 今度はもう おしまいだ 


今度は どんなことがあっても 

ぼくらは言う 

困まることを はっきり言う 

人間が 集まって暮すための ぎりぎりの限界というものがある 

ぼくらは 最近それを越えてしまった 

それは テレビができた頃からか 

新幹線が できた頃からか 

電車をやめて 歩道橋をつけた頃からか 

とにかく 限界をこえてしまった 

ひとまず その限界まで戻ろう 

戻らなければ 人間全体が おしまいだ 

企業よ そんなにゼニをもうけて 

どうしようというのだ 

なんのために 生きているのだ 


今度こそ ぼくらは言う 

困まることを 困まるとはっきり言う 

葉書だ 七円だ 

ぼくらの代りは 一銭五厘のハガキで 

来るのだそうだ 

よろしい 一銭五厘が今は七円だ 

七円のハガキに 困まることをはっきり 

書いて出す 何通でも じぶんの言葉で はっきり書く 

お仕着せの言葉を 口うつしにくり返して ゾロゾロ歩くのは もうけっこう 

ぼくらは 下手でも まずい字でも 

じぶんの言葉で 困まります やめて下さい とはっきり書く 

七円のハガキに 何通でも書く


ぼくらは ぼくらの旗を立てる 

ぼくらの旗は 借りてきた旗ではない 

ぼくらの旗のいろは 

赤ではない 黒ではない もちろん 

白ではない 黄でも緑でも青でもない 

ぼくらの旗は こじき旗だ 

ぼろ布端布をつなぎ合せた 暮しの旗だ 

ぼくらは 家ごとに その旗を 物干し 

台や屋根に立てる 

見よ 

世界ではじめての ぼくら庶民の旗だ 

ぼくら こんどは後へひかない

NHK連続ドラマ『エール』主人公古山裕一(窪田正孝)モデル古関裕而の放送もコロナ禍によって制作が中断したため、ほぼ折り返し地点(13週)で626日から放送休止。

あっと言う間に1か月が経過した。

時間の流れは早いものです。

ドラマではまだ、戦争の話しは出て来ていません。

今日は亡くなった父がよく話しをしてくれた学徒出陣の話しを歴史の記録から抜き出してみました。

学徒出陣

昭和18年(1943)10月21日、明治神宮外苑の国立競技場で若者75,000人が終結する出来事があった。

あいにくの雨だったが、戦況の悪化に伴って、20歳以上の学生の兵役免除がとかれ、戦地に赴くことになった25,000人の学生の出陣壮行会が行われた。

雨の神宮外苑での「学徒出陣」壮行会に、送られる学徒25,000人、見送る女子学生ほか約50,000人の人々が集まった。

文部省から出された壮行会の目的は、「学生たちを戦場に赴く決意を促し、意識を昂揚する。」にあった。そのため大観衆が集められることになり、女子学生や旧制高校生が動員されたのである。

この人たちはずぶぬれになりながら、スタンドからどのような気持ちで、見送ったのであろうか。東條首相の訓示、出陣学生代表の答辞、最後に「海行かば」の大合唱で壮行会の幕を閉じた。

この壮行会に出た出陣学生のうち、3,000人以上が戦死したといわれている。

学徒出陣した学生の戦後の証言

『女子学生の声援を今でも鮮明に覚えています。入口から「歩調とれ」の号令で会場に入りました。胸に残っているのは、女子学生 たちの「がんばって下さい。」「生きて帰ってきてください。」の声援でした。これで彼女らを護らなければならないという 気が起きました。』

『とうとう来たかと思いました。軍隊がイヤだから大学に入ったようなものだったから。先輩から聞くと軍隊の厳しさは、人を 人間扱いしない。 教練の成績も悪かったし、軍隊にはできれば行きたくなかった。みんなそうではなかったんですか。』

『軍隊は非合理でした。上官が、2日目から訳もなく殴る。人の能力をどうしたら引き出せるか、どうしたら敵に勝てるかというのは ほとんどなく、日本精神でひっぱたいて鍛えることしかないんですよ。』

見送った女子学生の戦後の証言

『鮮明に記憶しています。あの日は、どしゃ降りの雨で、頭から下着までずぶぬれでした。会場全体が、 白と黒中心の全く色彩のない風景でした。

学生たちがゲートを出て行くとき、予期しない出来事が起こりました。女子学生が出口にどーっとなだれを打って駆け寄ったん ですね。いまから出陣する人に、女が近寄るのは不謹慎であることはわかっていました。ただ近づいて雨と涙で行ってらっしゃいと 言いたかったのです。彼等は、手を振るでもなくただまっすぐ前を見て、銃を背負って出て行きました。学生が出陣しなければ ならないのは、戦争は終わりですよ。「一期一会」、これで終わりだと思うから、タブーを犯したわけですね。しかし、ほとんど 帰る希望のなかった学生たちへの餞になったと思います。』

『東京オリンピックの開会式で、カラフルなユニホームを着たアメリカ、イギリスの選手たちがわれわれにニコニコと手を振っている。 あの雨の学徒出陣壮行会と同じ競技場で。これには大きな衝撃を受けました。

当時の、その落差の大きさ、大きなショックは、体験者でなければわからない心の燃えでしたね。

失ったもの、悲しみの大きさがすべての原点となって、私を支えてきました。』

『出征直前、婚約した彼が軍服で挨拶にきました。初めて二人になったとき、彼は襟を正して言いました。「この戦争は間違ってる。 国のためならともかく天皇のために死ぬのはイヤだ」と。当時、日本は神国だ、天皇のために死ねとの教育でしたから、私は びっくりしました。

あの時、なぜ戦争がイヤなのかを聞かなかったのか。そんなにイヤなら二人で死のうとなぜ言えなかったのか。出征を見送る ホームで、彼は笑っていたけど涙していました。「どこへ連れて行かれるのかなあ」それが最後でした。彼は沖縄で死にました。 彼の気持ちを受け止められなかったのを今でも悔やんでます

いまの若い人たちに頼みます。世界中が平和になるような世界をつくってください。』

終わりに

私の父も高齢になってからは学徒出陣のことをよく話してくれたものです。

雨の中を行進し、満州に行き、陸軍の歩兵として、あちこちと転戦したこと、きっと苦しいことや悲しいことはあったかと思いますが、いつも穏やかな淡々とした話し口調でした。

戦後、戦争を知らずに生まれた僕達は、戦争について多くのことを知らないし、知らされていないのではないでしょうか。

戦争を知らない僕達はもっと戦争のことを知るべきではないのでしょうか。

平和がいかに素晴らしいことなのかを感じながら、今を大切に生きるのが僕たちの使命なのだと思います。




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